雙林寺縁起

雙林寺
どんよりとした曇り空の京都東山です。午後から雨の予報となっています。今日は改めて、雙林寺の縁起を紹介したいと思います。

 雙林寺は、伝教大師御作とされる薬師如来(重要文化財)と歓喜天をおまつりする、天台宗(本山は比叡山延暦寺)の寺です。開基は805(延暦24)年、天台宗宗祖伝教大師の創建と言われています。

 大師が唐から帰朝後、請来された天台密教経疏500巻及び護摩の器具を桓武天皇に献上されました。天皇は、左大使尾張連定鑑(むらじさだみ)に勅して、この地に伽藍を創立し、経典などを置き、国家安穏の護摩祈祷道場としました。 

 1141(永治元)年、鳥羽天皇皇女綾雲女王が住持し、1196(建久7)年には、土御門天皇皇子静仁法親王がこの寺にて得度され、双林寺宮と称されるなど、皇室とのかかわりも深く、鎌倉時代までは、数万坪ともいわれる広大な寺領に、蓮華院、長楽寺、松泉院、金量院、蔡華園院、圓頓院、妙言院、無量壽院、通玄院、発心院、勝林院、南霊山寺、北霊山寺、朝雲院、百光院、桂橋院、岩栖院の十七の支院を有していました。しかし、1335(建武2)年、足利尊氏と新田義貞との戦場となり荒廃しました。

 青蓮院慈鎮和尚は、当山百光院に住職され、有名な和歌「わが恋は松をしぐれの染めかねて真葛ケ原に風騒ぐなり」を詠まれました。そのころ、近江国隆法寺、伊勢国永楽寺、山城国西山往生院を末寺として擁していました。

 1373(応安6)年、国阿上人が入寺され、至徳年間(1384~87)は、時宗国阿派の本山東山道場となり、中霊山とも号し、再興されました。また、後小松天皇の深い帰依もあり、1386(至徳3)年「金玉山」の宸額を賜うに至りました。 その後、火災や、応仁の乱により再び荒廃しました。

 中世以降は、桜の名所で知られ、1584(天正12)年、羽柴(豊臣)秀吉が花見の宴を催し、前田玄以に命じて、花樹保護の制札を立てさせました。翌年には、羽柴(豊臣)秀吉により本堂が再建されました。

 1605(慶長10)年に高台寺、1653(承応2)年には、東大谷祖廟の造営にあたり寺領を献上し、規模を縮小しました。明治維新のときに天台宗に復し、廃仏毀釈や1886(明治19)年、円山公園造営のため、さらに多くの寺領を上地し、今は僅かに本堂一宇と飛地境内にある西行法師ゆかりの花月庵(西行堂)を残すだけとなっています。(※出典:拾芥抄、今鏡、帝王編年記、東寺長者補任、坊目誌、華頂要略、他)

 京都十二薬師霊場会特別公開は22日(日)までとなり、今日を含めてあと3日間となりました。どうぞお参りお待ちしております。今日も楽しい一日を。