芭蕉忌

かな碑
 曇り空の京都東山です。今日は、「芭蕉忌」となります。松尾芭蕉は江戸時代の俳人です。 伊賀上野出身で、全国各地を旅して、「奥の細道」「更科紀行」「嵯峨日記」など、多くの紀行文や日記を残したことで有名ですね。

 雙林寺飛び地境内にある花月庵前の東側、雙林寺墓地石段右横に、芭蕉の仮名碑(高さ1.2m・幅45cm)があります。芭蕉の門人である各務支考が、芭蕉の17回忌にあたる宝永7年(1710)3月12日に建立したもので、漢字かな混じり文で刻まれていることから、本邦初のかな碑といわれています。

我が師伊賀の国に生まれて承応の頃より藤堂の家につかふ。その先は桃地の党とかや。今の氏は松尾なりけり。年また四十の老をまたず、武陵の深川に世を遁れて、世に芭蕉の翁とは人のもてはやしたる名なるべし。道はつとめて今日の変化をしり、俳諧は遊びて行脚の便りを求むというべし。されば松嶋は明けぼのの花に笑ひ、象潟(きさがた)はゆふべの雨に泣くとこそ。富士よし野の名に対して「われに一字の作なし」とは、古をつたへいまをしふるの辞(ことば)にぞ。漂泊すでに二十(はた)とせの秋暮れて難波の浦に世をみはてけん。其頃は神無月の中の二日なりけり。さるを湖水のほとりにその魂をとめて、かの木曽寺の苔の下に千歳の名は朽ちざらまし。東華坊ここに此碑を造る事は頓阿西行に法筵を結びて、道に七字の心を伝ふべきとなり。

 建立されてからは、毎年3月12日に、石碑に刻まれている文字の墨を入れ直し供養するという「墨直会」が全国の社中が交替で執行の当番をし、開催されていました。また、東京深川にある臨川寺には美濃派の俳人、神谷玄武が、愛媛県松山市円満寺には、支考の門人、臥牛洞狂平が建てたという、これを写した石碑があります。どうぞご参拝の折、ご覧になってください。今日も楽しい一日を。