仇桜

 

 今日もいいお天気の京都東山です。朝から、天台宗京都教区壇信徒会総会が市内のホテルで4年ぶりに開催され、出席してまいりました。京都教区にはおよそ70の寺院が所属していますが、その各寺院の壇家さん信者さん同士の交流を図ろうと始まった集まりです。今回はおよそ100名の方々が参加されました。事業計画など議事が審議され、終わって、講習会、お昼ご飯を兼ねて懇親会となり、午後は見学研修会と盛りだくさんの内容となっています。

 今回の見学は、現在行われている妙法院さんの庫裡の修理現場の見学でしたので、講習会も京都府教育庁の先生に修理内容について事前に説明していただきました。みなさま熱心に聞き入っておられ、ご質問もされるなど盛況でした。

 ところで、妙法院の前には京都国立博物館があり、親鸞聖人生誕850年特別展ということで、多くの方々が訪れておられました。昨日の桜のお話の続きにもなりますが、私は、親鸞聖人のお得度にまつわるお話を思い出しました。

【明日と思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは】

 この歌は9歳の親鸞聖人が、仏門に入ろうと決心して、青蓮院の慈円さまを訪ねた時に詠まれたとされています。親鸞聖人が訪れたときは、すでに夜になっていましたので、慈円さまは「今日は遅いので、得度式は明日にしよう」とお応えになりました。しかし、聖人は「明日まで待てません」として、この歌を詠まれたのです。

 「桜の花がきれいに咲いているからといって、夜半に嵐が吹いて散ってしまうかも知れません」桜の花がはかなく散るように、機会を失うことになかもしれないという意味です。つまり、自分の命を桜にたとえて、明日はどうなるかわからないから、今すぐお願いしますと懇願されたというのです。その想いに慈円さまは、「この子はただ者ではないな」と思われ、その日の夜のうちに得度式を行ったということです。

「今日できることは今日済ませておく」あしたのことはわからない、あしたお見舞いに行こうと思っていたら、病気の方は旅立つかもしれない。諸行無常の世の中ですね。今日も楽しい一日を。