真葛ケ原

花洛名所図会

 今日も曇り空の京都東山です。さて、雙林寺の周辺、現在の円山公園を中心に、北は、知恩院三門前より南は雙林寺におよぶ山麓一帯の旧称を「真葛ケ原」といいます。しかし、現在では、地元住民の世代交代やご存じない方が越してこられて廃れているようにも感じます。

 むかしは、真葛やすすき、茅、萩などが一面に広がる原野でした。鎌倉初期、天台座主慈円僧正がその景観を望んで、「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛ケ原に風さわぐなり」と詠ってから、一躍和歌の名所となり多くの歌に詠われることになりました。

 江戸時代に安養寺塔頭の六阿弥などで酒食をもてなす水茶屋が設けられ、席貸が始まります。春秋の花見時には文人酔客が多数訪れ、酒を飲んで花の美を賞するところとなりました。頼山陽先生の「山陽遺稿」には、「花時には着飾った男女が群がって集まり、飲めや歌えやの大騒ぎをして、挙句の果てには、食いものを所かまわず吐き出したり、忘れものを放置するなど、真葛ヶ原はもっとも盛んな遊興地だ云々」と嘆いておられます。

 江戸時代末には、桜の木が植えられ夜にはかがり火が焚かれ、夜桜見物の花見客で賑わいました。円山公園中央にある枝垂桜が有名となり、京都の桜の象徴ともいわれるようになったのはこの頃からです。

 また、宮川小兵衛政一が、貞亨年間(1684~1687)に知恩院門前に居を構え陶芸の商いを始めます。その後、小兵衛政一から数えて五代目に長造という名工が生まれ、真葛ヶ原に窯を開き真葛焼が始まりました。その四男虎之助が初代真葛香山です。香山は、9歳の頃から、雙林寺で絵と書を学んでいたそうです。

 青蓮院さんがある粟田地域には粟田焼がありますので、この辺りはやきものが盛んだったのかもしれませんね。調べるといろいろと出てきますね。今日も楽しい一日を。