心をこめる

しょうぐうさん
 いいお天気の京都東山です。今日は大安です。「吉日にて万事進んでよし」です。何かいいことありますように。

 さて、いわゆる拝観客といわれる方もお寺にはお越しになります。寺務所から様子をうかがっていますと、グループなどで来られて、ときどきお話されることに、「心さえこもっていれば、形なんてどうでもいいんじぁないの~」があります。「心をこめさえすれば、作法なんて知らないし、できなくてもいいのよ。要は心よ。だから私は、こうやっておくの~(我流を紹介される)みたいな。

 でも本当にそうでしょうか?みなさんの心と行動はそんなに簡単に分けて考えられるものなのでしょうか。例えば、この品物をあの人にプレゼントしようという時に、その辺にある汚い紙で包んでもよいのでしょうか。 少しでもきれいな包装紙で包んで、体裁を整えて、今でいう映えるように仕上げて差し上げたいというのが心をこめるということなのではないでしょうか。

 作法をすると、心がこめられる、心をこめようとすると作法が必要になってくる。そんな関係だと思うのですが。今日も楽しい一日を。